求めて居た自由な時間との向き合い方

失業保険を貰うためには、辞めた会社から離職票が届かぬうちはダラダラと・・・もとい、ゆっくりと自分と向き合い、これからの人生の計画を立てるしかありません。

もし仮に、僕にインドアの趣味があれば、有意義な時間を過ごせるのかも知れませんが、生憎と僕は長い社畜人生のお陰で、趣味という贅沢な時間潰しの手段を持って居ません。

つまり、何が言いたいのかと言うと、暇なのである

もう一度、言おう。至極、暇なのである

朝起きてもやることがない。時計を見ても、誰かに急かされることもないし、誰かを待たせているわけでもない。社会との接点が突然プツンと切れたような感覚。これが、いわゆる「自由」なのだろうか。

だが、どうも自由というには妙な焦燥感がつきまとう。
やりたいことがないわけじゃないんだけど、それが「今やるべきこと」かというと、いまいちピンとこない。何を始めても、どこか手応えがない。自分という存在が、ふわりと宙に浮いているような、そんな不思議な感覚である。

スマホをいじれば、他人の“充実した毎日”が目に入る。趣味に打ち込む人、副業を始める人、旅に出た人、何かを学び直す人。スクロールする指先だけが、やけに機敏だ。

それに比べて自分はどうだ。家にこもって、時間だけがゆるやかに、しかし容赦なく過ぎていく。社畜時代は「時間があればあれもこれも」と夢想していたはずなのに、いざ時間を与えられると、こんなにも使い方がわからないとは。

だが、もしかしたら――これは人生から与えられた「空白」なのかもしれない。無理に埋めるのではなく、一度ちゃんと眺めるべき時間。

焦らず、急がず、ほんの少しだけ、自分の過去と未来に耳をすませてみようと思う。

そうやって過ごす時間が、いつかまた、何かを始めるための“余白”になるのかもしれない。